慣れるということ
更新日時:
2005/07/10
貨幣価値の低い国に行くと、最初はとても金持ちになった気がする。しかし、いつの間にか現地の水準に慣らされていき、10円の差ですら許せなくなっていく。友人は半日がかりで長距離バスの値引き交渉をしたというが、違いはせいぜい日本円にして100円くらいの差。社会人にとっては時間の方が貴重なことをすっかり忘れてしまうのだ。
ある国に旅をした時は、日が経つにつれ、飛び交うハエが全然気にならなくなった。
どこを歩いても、人々の視線が私たち旅行者に張り付いていた国から帰国した時は、成田からの電車の中で、当然のことだが誰も私に注目してくれないのが少し寂しかった。現地ではあれほどわずらわしかったにもかかわらず。
外国からの帰国直後、東京の雑踏を歩いていてぶつかりそうになり、思わず「エクスキューズミー。」などと口走りそうになってしまった経験は誰にでもあるのではないだろうか。
PAULがまだ日本に来てまもない頃は、空いている各駅停車から急行に乗り換えたりはしなかった。たかだか10分早く目的地に到着するために、快適に座っていた座席から立ち上がってすし詰めの電車に乗る必然性が理解できなかったからである。現在の彼は急行の待ち合わせがある時は、当然のように乗り換える。この10分の差が耐えられなくなったのだ。
ラッシュアワーの電車の中で、嬉しそうにしている外国人がいたら、それは旅行者か日本生活のルーキーである。仕事に疲れている時に、混雑そのものを楽しんではしゃいでいる人を見るのはつらいが、大目に見てやって欲しい。彼らもじき慣れ、そのうちむっつりとした顔で乗るようになるのだから。
外国人の配偶者を持つという事は、すごく大ごとのように思う人がいるかもしれない。確かに最初はカルチャーギャップがたくさんあるのは否定できない。しかしこれもやがて慣れる。他人から見ると、外国人と歩いているように見えるかもしれないが、私は夫と歩いているのである。これが私たちの日常なのである。