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お金はあるのに(ハンガリー.チェコ)

 今は知らないが、1992年当時の旧社会主義国では、自国通貨を国外に持ち出す事は禁止されていた。また出国時の再両替も、ほとんど不可能であったことから、私と友人は日本の旅行社から、常に最小限必要なだけの両替をすることを勧められていた。

 

 しかし、旅に必要な金額を割り出すのは、思った以上に大変なことであった。まず、ガイドブックが全然当てにならない。恐らく、共産主義が崩壊したばかりだったので、日本の情報誌が追いつかないくらいインフレが進んでいたのであろう。空港からの乗り合いタクシー(定額)の値段からして天と地ほど違っていたのだ。

 

 今回の旅では、ホテル代はすでに日本から払い込んである。ここは東京か、ニューヨークかと見紛うくらい高額である。どちらの国も、融通の利かない元国営の旅行社を通さなければ予約できず、チェコでは希望していた老舗ホテルは取れなかった。多分よく調べれば、当時でも安く旅をする裏わざはあったとは思うのだが。ブタペストの後に立ち寄ったウィーンのホテルが1番安かったとはなんとも、皮肉な話である。

 

 ともあれ、ブタペストでは、最初に空港で両替してから、超インフレの現実に気がついたので、ホテルにチェックイン後、あわてて2回目の両替をしに銀行に駆け込んだ。なんとも忙しい「必要最低限」である。通常、私はクレジットカードを使用することが多いのだが、これが使えない場所も多いのだ。お金をケチるつもりはないのに、何も変えない欲求不満状態が続いて、だんだん面倒になり、たくさん両替したら結局最後は余り、列車でウィーンに出発の朝、駅の何もめぼしいものがない売店で、右から左まで並んでいるものを吟味することなく買いあさる私たちであった。

 

 プラハの最後の晩、私たちはホテルの名前の付いた専用タクシーに、あらかじめ空港までの値段を聞いておき、そのお金をより分けておいた。しかし、私たちは旅の最後ということで夕食を少し豪華にしてしまったようだ。それ自体はすばらしいひと時であったので、もちろん後悔はない。ピアニストは私たちのために日本の曲を一生懸命弾いてくれたし。残念なことに私より遥かに前の世代の曲で、もしピアニストが私の顔を見ながら弾かなかったなら、私はそれが日本の曲であることに気がつかなかったかもしれない。

 

 旅の間、私と友人は共通の財布を作り、食事代やチケット代、チップなどはそこから出していて、旅の前半は私が、後半は友人が管理していたのだが、その最後の夜、喉の渇きで目が覚めた友人が、冷蔵庫を開いたまま腕組みしている。ミネラルウォーターを飲みたいのだが、それを飲んでしまうと明日のタクシー代が足りないのだと言う。宿泊代は払い込んでいるため、チェックアウトの時はこのドリンク代だけなのでカードは使えない。「お金はあるのに~」というこのジレンマ。しかし、とうとう誘惑に耐えられなくなった彼女は冷蔵庫から水を取り出したのだった。

 

 翌日、ホテルの両替サービス所で、たった3ドルの両替をしている友人がいた。ちょっと笑ってしまったが、私たちはこれで助かった、空港に着いてタクシー代を払ったら、日本円換算でなんと100円しか残っていなかったのだから。この残金でガムを買い、残りを赤十字の献金箱に入れ(と、偉そうに言うほどの金額ではないが)私たちはプラハを後にしたのだった。

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