中高時代のペンパルに会う。(結婚後)
中学高校時代、私にはミネソタに住むペンパルがいた。中学時代の担任がアメリカに研修に行った際に持ち帰ったお土産だったのだ。
それは当時の中学生にとっては、大変エキサイティングなことだった。しかし手紙をもらうのは嬉しかったが書くのは、大変な作業である。相手は母国語だから楽なものだ。1ヶ月かかって、やっとの思いで書いてほっとしていると2週間で返事が来る。どうやら私の手紙が届いたらすぐ書いているらしい。しかし、文通はなんとか高校3年頃まで続いた。
なぜ終わってしまったのか。それは彼女が電話で話しをしようと言い出したからだ。手紙は書けるが(「文通の友」という心強い本もあったし)、話はできない。そんなの日本では常識でしょ。でもアメリカ人にその常識はない。書けるから話せると思っている。第一、当時はドル360円時代。加えて国際電話は恐ろしく高い。話が通じないまま何万円なんて払うことになるかも・・。気の弱い高校生は手紙も書けなくなってしまったのだった。
加えてもうひとつ。私たちは時々写真を交換していたが、この5年間で彼女は子供から美しい女性に成長していた。私はというと、中学生の頃から大して変わっていない子供のままだった。それも気が進まない理由のひとつだった。
しかし気にはなっていた。彼女からは「どうしたの?」というレターも来ていたが返事を書こうと思いつつ、だらだらしているうちに、とうとうチャンスをなくしてしまった。
そして20年の月日は流れ、ある日引き出しの整理をしていたら彼女の手紙一式が出てきたのだった。PAULに話したら、彼は面白がり、ぜひ探してみようということになった。手紙に書かれていた電話番号はさすがにもう他人の物だった。しかし幸いなことにPAULの姉がミネソタにいる。そして彼女のフルネームはもちろん両親、兄そして犬の名前もわかっている。義姉にその情報を伝えたら、なんと10分後に連絡が。「I FOUND HER!」
それは偶然が重なった奇跡にも近い話なのだが、長くなるので割愛する。私はさっそく彼女に電話をし、近況報告をした後、半年後、ミネソタで再会、いや初めて会ったのだった。
初めて会った My Penpal 、リンダ(一応ネットなので仮名)は昔の写真の面影は全くなかった。しかし、とても裕福そうであった。
最初にリンダと話をした義姉は、リンダは私のことを全く忘れていなかったいと言っていた。そして私が彼女を探しているということを知って興奮していた、とも。
彼女は私からの手紙をすべてきれいに保存していた。それは私も同じだが。
リンダがそれらを出してきた時は、まるでタイムカプセルを掘り出したような気分だった。
懐かしい私の幼い手紙。拙い学校習ったばかりの構文が出てきたかと思うと、「文通の友」を丸写ししたような流暢な文章が、次に続く。PAULが横で「かわいい!」と大笑いしてしている。内容を読んでいくと。当時の私の生活ぶりがよくわかる。
そして私は息を呑んだ。水森亜土の便箋がそこにある。それは私の宝物だった。リンダに、私の便箋がかわいいから欲しい、と所望され、お安い御用と、文房具店を探したが、同じものを見つけることができなかった。そこで、私は断腸の思いで(何せ宝物だから)、残り少なくなった手持ちの便箋を送ったのだった。そしてそのほかにも新しく買ったものや、他にもコレクションしていた大切な便箋も同封した。そんな忘れていた思い出が、一気に脳裏によみがえってきた。
結局リンダは、もったいなくて使えず、すべてきれいに保存していたのだ。私は、といえば宝物であったはずなのに、いつの間にか捨て去って、集めていたという事実さえ忘れてしまっていた。皮肉なものだ。もしリンダに送っていなければ、もうこの世からは無かったはずのものだったのだから。
そのほかにも安っぽい扇子。絵葉書。富士山や金閣寺は変わらないけど、新宿や銀座はぜんぜん違うなあ。これが時の流れってやつね。
なんか英語のエッセイではなくなってしまった。でも、楽しい再会(気分はやっぱり再会なの)だった。
今はネットがあるから海外の友を探すのは簡単かもしれない。でも、こうやって「残る」文通を私は若い学生たちに勧めたい。