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バイクの免許を取る

更新日時:

2005/05/10 

 PAULが突然バイクの免許を取りたいと言い出した。今から6年前のことである。当時、公民館での英会話の仕事が増え、移動手段として必要になったのだ。

 

 10代の時は好きでよく乗っていたものだった。しかし車が人々の足であるアメリカでは、バイクは移動手段ではなく、あくまでも趣味で乗るものである。大人になり、仕事が忙しくなるにつれ乗らなくなってしまったのはある意味、必然的なことである。

 

 現在の日本の道路交通法ではビザ保持者は、90日以上日本を離れなければ国際免許は更新できないことになっているが、6年前は違った。毎年更新できたのである。しかし、PAULは車の免許はあるが、バイクの免許はない。たいしたお金でもないのに、いつでも取れるからと更新料をけちったことがしみじみ悔やまれる。しかし今更後悔しても遅い。さっそく府中の試験場に出向いて、日本での免許取得に乗り出した。

 

 筆記は簡単だった。英語で受けられた上に、事前にテキストを買って勉強していたからだ。しかし実技は違った。移動手段なのだから中型で十分と、臨んだ試験であったが、見事に橋(?)から落ちてしまったのだ。これではだめだと、練習させてもらえるところを探すべく、私は電話帳を片手に教習所に片っ端から電話をかけまくった。しかし、バイクはフルコースだけで単発の練習コースはないのだった。

 

 それでもをようやく練習場を見つけ、16000円くらいの入会金と1時間5000円のレッスン代を払って入会した。もともとバイクには乗れないわけではなかったので、ほどなく橋乗りのテクニックも取得した。3回目からはコーチなしでいいとのことで練習代も3000円になった。

 

 6回くらい練習し自信がついたところで再挑戦。しかしやはり落ちた。最後まで行く前になぜか名前を呼ばれ、リタイヤを宣告されてしまう。40キロ出さなければならないところを38キロしか出していなかったと言われ、試験場の設備投資にかける資金力にいたく感心したりもした。

 

 1度落ちると次の予約は早くて1週間後、これではいつ乗れるようになるのか。自分の運転技術に自信があるだけにフラストレーションはたまる一方だ。試験に毎回落ちていると思うとストレスが溜まるので、これは自分の趣味で乗っているのだと思うことにした。

 

 落ちることに何も感じなくなったある日のこと。この頃はコースの最後まで乗れるようになっていた。コースを無事終え、いつもどおり試験官から、犯したミスを指摘されフンフンと聞いていた(どこまで理解していたかは怪しいものだが。)が、最後に試験官はいつもと違うことを言った。「合格です。」PAULは一瞬えっと思い、そして聞いた。「ゴウカクって何?」試験官は笑って一言。「パス!」6回目の挑戦だった。

 

 PAULは喜びに溢れて私に電話してきた。「ゴウカクした!」と。しかし、実はそれで終わりではなかったのだ。取得者講習を受けなければいけなかったのだ。ここからは私の出番で、またしても教習所に電話をかけまくる。試験場に登録していながら、なぜかバイクの講習はしていないとうそぶく所も。これは後で試験場に教習所を名指しでさんざん文句を言わせてもらった。10件くらい電話してようやく予約を取るつけることができた。1番早いところだったのだが、1ヵ月後だった。結局免許証を手にしたのはPAULが決心してから3ヵ月後のことである。

 

 あの悪夢の日々から3年の月日がたち、バイク友も出来、バイクに目覚めてしまったPAULは大型バイクに乗り換えたいと言い出した。ツーリングでは誰も400CCなんて乗っていないのだった。しかし、彼は同じ轍は2度と踏みたくなかった。大型は中型より大変だとのうわさも耳にしていたし。今度は教習所に通うことしたのだ。私が自宅からパソコンで仕事の空いた時間にうまく予約を入れ、何と1週間で全コースを終了し、その2日後には無事免許を取得することができたのだった。

 

 アメリカでも数年前の帰省時にバイクの免許を再取得したのだが、なんと借りたバイクで試験場まで行くと言う。試験場ではバイクは貸してくれないのだ。

「免許がないのに道路を走っていいの?」私はびっくりして聞いた。

「だって試験場で貸してくれないんだからそれしかないだろ?」

「じゃあ、もしおまわりさんに捕まったら?」

「これから試験場に行く、と言ったらそれでOKなんだよ。おまわりさんも試験場への道は知っているし。」

そういう問題かい?

 

 この日、あっという間に免許を取ってきたPAULなのだった。ちなみに250CCのバイクで試験に臨んだのであるが、すべての大きさのバイクに乗れるとのことである。

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