top of page
1971年の夏。
地方版の小さな記事が高校教師のジャックの目に留まった。
それは次のようなものであった。
「ホストファミリー募集。
ドイツ人と日本人の青年たちが、6週間の予定でやってきます。
もし、その期間、宿泊させていただければ
フランクフルトまでの往復航空券を進呈いたします。」
「おお~、ドイツか。」
ジャックの妻はドイツ系である。
といっても入植したのはたぶん200年以上も前なので
ドイツに対しての郷愁というものはないのだが
家族そろってドイツに旅するのもいいかもしれないなあと
ジャックは思った。
安月給の高校教師で4人の子持ちの彼には
こういう機会でないと一家をあげての海外旅行はまずできない。
さっそくジャックはそこに記されている事務所に出向き
手数料50ドル(この当時の50ドルはかなり大金である!)を払って申し込んだ。
もちろん、「6人受け入れたら6人分の航空チケットをもらえるのですね。」と
念を押すことも忘れなかった。
訪ねてくる青年グループはドイツ人と日本人。
どちらを受け入れるかという選択肢では
彼は迷わずドイツ人を選んだ。
妻のルーツだからということもあったけれど
正直に言ってしまえば、
ジャックにとって日本はまったく未知の国である。
日本人など見たこともないし
パールハーバーの記憶もまだまだ鮮明だ。
それからしばらくの間、
ジャックの頭の中は
自宅に受け入れるドイツ人の青年たちと
自身のドイツ家族旅行のことでいっぱいだった。
ドイツ人たちを6週間、何を食べさせ、どうやって楽しませようか。
フランクフルトに着いたら、どうしたらよいのだろう、
ドイツには知り合いなどひとりもいないのに。
確実に実現するであろう未来の計画を練るのは
不安でもあったけれど、それ以上に楽しく幸せなひとときである。
そう、実現するのなら・・・。
でも、世の中はそんなに甘くはなかったのである。
それから2か月ほどたった6月のある日、
ジャックは1通の手紙を受け取った。
このツアーの主催者、F博士からで
内容は「この計画は失敗した、ついては手数料は返す」というものだった。
律儀なジャックはさっそく返事を書いた。
「それは残念ですね。もし何か私にできることがあるのなら
おっしゃってください。」
このジャックの手紙に勇気を得たのか
数日後F博士は本当に電話をしてきた。
ロサンゼルスからである。
なんと、6日後に日本から116人の若者が来るというのである。
ここで付け加えておくことがある。
このF博士は単純に事業に失敗したのでなく
はっきり言えば詐欺を働いたという表現の方が正しい。
ホームステイ受け入れの手続きを取った人たちから受け取った手数料
(返すということではあったが返還はされていない。)と
日本政府から受け取ったツアー代金を持って
どうやらラスベガスへ逃げてしまっていたようなのだ。
なぜ日本政府が関係しているかというと
このツアーは当時の外務省の外郭の財団法人が
未来ある青少年向けに企画したものだったからだ。
1971年といえば1ドル360円の固定相場の最後の年である。
たぶん外貨持ち出しも500ドルに制限されていた頃だと思う。
第2時世界大戦後の日本人海外渡航制限が解除されたのは1964年で
最初のJALパックツアーが発売されたのが1965年である。
数年前にその最初のツアーの集合写真をテレビで見たが
ハワイなのに女性は着物、男性はネクタイ着用であった。
それほど海外に行くというのは一大イベントだったのだ。
であるから、このアメリカツアーの参加者は
若者とはいえ、皆大きな大志を抱いた
大変なエリートばかりである。
当時の参加者に聞いたところによると
まず、申し込むのに、推薦者が必要で
その後、筆記試験に5回の面接と、
かなりの難関を通り抜けて
プラチナチケットを勝ち取ったということであった。
もちろん、ツアー代金などの額的にもかなりの自己負担があったという。
話を元に戻そう。
つまり、日本政府はこんな男を信用して
未来あるエリートたちを託していたのであった。
もちろん、この時のジャックはこんな事情など知る由もない。
わかっているのは、6日後に2週間の予定で116人の日本人がやって来る。
フェニックスには1週間留まるのだが
その間の彼らの宿は、まったくもって白紙の状態であるということだけ。
日本人を路頭に迷わせるわけにはいかない!
ジャックは決心した。
翌日、ジャックはF博士からホストの応募者リストを受け取った。
リストの人たちは、外国人を自宅に受け入れる心づもりが
出来ている人たちではあるが
見返りとしてドイツまでの航空券を
期待して手数料を払ってしまった被害者でもある。
それだけでも腹ただしいのに
日本人を無料で、いや持ち出しで
受け入れてくれと頼まなければならない。
しかも、5日後である。
準備期間もほとんどないのである。
その上ジャックは代表者でもなんでもない。
「あんたは誰?」と不審がられるかもしれない。
でもやるしかない。
幸いに今は夏休み。
教師のジャックには時間は十分にある。
ジャックは子どもたちに
「この5日間は電話を使ってはならない。」と言い置いて
書斎に閉じこもった。
アメリカではローカル電話は基本料金内なので
長電話しても彼に金銭的な負担はかからない。
ジャックは1日10時間受話器を握り続けた。
宿を必要としている人数は116。
どう考えても1家に1人では間に合わない。
彼は詳しい事情を説明し、了承してくれた人には
もう一人どうですか?と頼み込み
OKされれば、またさらに1人というように
粘り強く交渉し続けた。
彼の熱意が神様にも通じたようで
最後のひとりの宿泊先が決定したのは
なんと到着日前日の夜の10時。
ジャックはとうとうやり遂げたのである。
日曜日の朝。
フェニックスのスカイハーバー空港には
ホストファミリーとして49組のアメリカ人家族が
116人の日本人の到着を待っていた。
急なことだったのに
見も知らぬ日本人を
1家族で平均2~3人受け入れてくれているのである。
これがアメリカの懐の広さなのだと私は思う。
ともあれ、ジャックは彼らを見つけて
一か所に集合させるのに非常に苦労した。
携帯など無い時代である。
この5日間、ジャックは
彼らひとりひとりと電話で話はしたけれど
実は誰の顔も知らなかったのだ。
116人のエリート日本人と
善意と愛に満ち溢れたアメリカ人の家族。
日本とアメリカの国際交流の華々しい第一歩である。
この「未知との遭遇」は
確かに両者に大きなインパクトを与えた。
この交流は今後も続いていくのだが
それについては、また後で述べるとして、
次回はジャック家の初めての日本人体験の話をしたい。
ジャックの家には3人の青年がやってきた。
30代リーダーと大学生である。
彼らが来る前日、ジャックの息子たちは
期待と不安が入り混じった気分で話し合っていた。
「英語話せるのかな?」
「間違ってもパールハーバーのことを
言ってはいけないぞ。」
でも心配は杞憂だった。
礼儀正しい青年たちを少年はいっぺんに気に入ってしまった。
「日本の家に冷蔵庫はあるの?」なんて
バカな質問もしてしまったけれど
彼らは嫌な顔もせずにさまざまな質問に答えてくれた。
空手の有段者は目の前で
驚くようなパフォーマンスを見せてくれたし
箸をくれた青年は
箸の使い方をていねいに教えてくれた。
「my name is」は日本語でどういうのか、
そして自分の名前はどう書くのか、
知りたいことはたくさんあった。
日本語のエキゾチックな響き。
漢字というミステリアスな文字。
日本は、日本語は、日本人は
なんと魅力的なのだろう。
彼らは夜を明かして語り合った。
約束の1週間が過ぎた時
ジャックの家族はいっぺんに日本びいきになっていたのだった。
これがこの家族と日本との
長くて深いつきあいの始まりである。
この、外務省の外郭団体である世界青少年交流協会
(世界青年友の会)が
何時の段階で、これらの事実を知ったのかは知らない。
でも、ジャックの奮闘がなければ
成功しなかったことは、十分認識していたはずである。
翌年、ジャックたちはNPO法人
World Youth Visit Exchange Association of Arizona,inc.
(WYVEA)を立ち上げ
彼は請われて初代会長に就任、
以後リタイアするまでの十数年間
毎年、日本人を受け入れ続け、
またアメリカからも日本へ送り出したのだった。
ジャック自身も青少年交流協会の招待などで日本へは数回行っている。
日本人たちを家庭に受け入れた人たちと
グループを組んで行った時にもある。
いつでも、どこでも彼らは手厚い歓待を受けた。
私はその時の彼らの手記を読んだことがある。
今、手元にないので詳しくは書けないが
とても楽しく充実した旅だったようである。
日本をまったく知らなかった人たちが
今でも日本を身近に感じながら生活している。
そんなことを考えると、とてもわくわくしてしまう。
アメリカ人の家族と日本人の青年たちが築き上げたものは
とてつもなく大きい。
そして、この時の個人的体験は
確かに多くの人の人生を変えたに違いないのである。
あれから40年もの年月が流れ
ジャック家も夫婦ふたりだけの静かな日々に戻った。
そんなジャックの家には、今でも
彼の家に滞在した多くの日本人たちの「足跡」が残っている。
ゲストブックや写真、日本人形。
そしてまだまだ続いている彼らとの友情だ。
若者たちも、大人になり、家庭を持つ。
そしてその子どもが、年ごろになって
またジャックの家にやって来る。
彼らは、ジャック家で過ごした夏をいつまでも鮮明に覚えていてくれているのだ。
何という恵みだろうか。
もし、あの時ジャックが、地元の新聞の小さな記事に目を留めなかったら
もし、ホストを探しに奔走しなかったら、
多くの人の人生が変わっていたに違いない。
少なくとも、
ジャック家の長男が
日本文化に魅せられ
日本人と、東京で家庭を持つことなんてことは
有り得なかっただろう。
そしてジャックの孫のひとりが
日本人と結婚したのも
けっして偶然ではない。
日本に住む長男にとって
父が築き上げた友情は
息子にとっても大きな財産である。
慣れない異国の地で受けた
日本人の友人たちのサポートや
彼らによって与えられた恩恵の深さは
計り知れないほど大きい。
英語スクールを開いている彼は
時々、アメリカに生徒を送りだすこともある。
アメリカの高校へ編入した女の子。
アメリカの大学院へ行った男子学生。
短期滞在の大学生に主婦たち。
もう何度も行ってアメリカに第2の家族ができた女性もいる。
これはもちろんビジネスではない。
父と同じように
日本人にはアメリカの良さを
アメリカ人には日本人の素晴らしさを
知ってもらいたいと単純に思っているだけなのだ。
ひとつの種が、成長し実を結ぶ。
そしてその実からまた種がこぼれ、次の実を結ぶ。
なんとすばらしいことなのだろう。
私も微力ながら
近い将来咲くであろう美しい花のために
多少でも「水撒き」してお手伝いできれば
と願ってやまない。
bottom of page