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ちょっぴり怖かったモスクワの夜

 私が友人と二人で、中欧(当時は東欧と言っていた)に旅立ったのは1992年9月、ソビエト連邦が崩壊した半年後であった。

 

 その2年前にはすでにベルリンの壁は崩壊されている。

モスクワのレーニン像は人々の手によって倒され、中欧の都市のレーニン広場は英雄広場と名前を変えたばかりで、まだ町の看板も地図の修正もされていなかった、まさに激動の頃である。

 

 私たちの旅の出発点は、ハンガリーのブタペストであったが、飛行機の乗り換え地がモスクワだったので、旅行社のスタッフに勧められ、トランジットビサでモスクワに1泊することにした。スーツケースは空港に置いたまま、手荷物のみでの宿泊である。国営のホテルは評判悪いとのことで、空港近くの外資系のホテルを予約してもらった。

 

 ビサの手続きは、自分たちで領事室に出向いて行うことになっていたのだが、ホテルのマネージャーが迎えに来てくれていた。宿泊者は私たちのほかに、若い女性の二人連れと男性の一人旅の3人で、皆日本人。成田からのフライトだから当然といえば当然だが。ホテルからは1時間置きに無料のシャトルバスが市内まで行くとのことなので、私たちはビサ待ちをしている間、皆で話しあい、観光を一緒にすることにした。もう既に夜だったし、さすがにちょっと怖かったので。

 

 モスクワ空港は銃を持った軍人たちに守られていて、常に緊張感が漂っている。そして私たちは入国時に、持ち込んだお金をすべて申告するのである。そして出国時にも同じように別紙に記入し、税関で金額を照らしあわされる。私の前の人はなぜか財布の中身まで調べられていた。

 

 無事ホテルに着いてちょっと一休みしてから、市内行きの8時のシャトルバスに乗る。バスを降りてから赤の広場までは徒歩15分くらい。記憶が少し不鮮明だが、確か地下のような所を歩いた記憶がある。そこには大勢の大男(と、私には思えた。)が何をするでもなくたむろして、それぞれが小さく固まって何か熱心にしゃべっているようだ。ドラムをたたいている人もいた。そしてツーリストの私たちには目もくれない。一種異様な雰囲気である。5人一緒でなかったなら、引き返していたかもしれない。誰の目の笑っていない。彼らはどこにも行く所が無いのだろうか。私の目には若いエネルギーをもてあましているように見えた。

 

 広場に着いた時はほっとすると同時に、大いなる感動を味わった。ここが、あの有名なクレムリン。いつもテレビで見ているのと同じ。私たちの連れの男性は2泊するとのことで、ボリショイ劇場のバレエのチケットを購入して私たちの羨望を一身に浴びる。しかし夜でも切符は買えるのか。それともあれはヤミ?

 

 レーニン像は倒されていたのに、この時はまだレーニン廟は存在していた。そして衛兵の交替式。この時までは、こんな夜遅くには、さすがに日本人のツアー客はいないだろうと私たちは思っていた。事実どこにも見当たらなかったし。ああ、それなのに、それなのに、交替式が始まったとたん、たくさんのフラッシュと共に大きな人のうねりが。見るとそこにはカメラとビデオを持った日本人の群れが!今までどこにいたのだろう。やっぱり日本人はどこにでもいる。恐るべし、ジャパンパワー!

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